幕末の志士になりたい
幕末の志士に憧れています。特定の誰という訳ではなく、「江戸末期に、何かのために戦った人たち」というもの全体への漠然とした憧れです。そういう意味では佐幕派とか倒幕派とか、思想の内容にはあまりこだわりません。
教科書や小説なんかでしか知らない世界ですが、人権意識なんて今と比べれば全く無かった頃、人1人の命というのは随分軽いものだったように感じます。そんな時代に自分の命を懸けて何事かを成そうと行動するというのは、きっと私の思っている以上にすごいことでしょう。天皇のためとか将軍のためとか、国のためとか、そんな大きなことを考えて活動するなんて想像もつきません。想像がつかないからこそ憧れるのかもしれませんね。
私にも、何かのために生きて死にたいという欲求があります。けれど今は欲求だけが先走って、何を目的にすればよいのかわかりません。何か大きな目的のために命がけで、戦って死ぬ。そんな志を見つけたいです。
庭先の石灯籠コレクション
今年に入ってから散歩中に見つけた庭先の石灯籠です。
集めていると、同じ形のものに度々出会います。
おそらくどれも火が入ったことはないのでしょう。明かりがついたところも見てみたい。庭で石灯籠の灯りがゆらゆらしていたらなんか素敵では。
これ、火を入れる部分(火袋)の穴が月型になっています。かわいい。
石灯籠と水車
珍しい色。
岩っぽい風合い。良き。
すごく小さい。
空地の隅にいた。ずれてる。哀愁がありました。
検査検査の不安のはなし
連日新型コロナウイルスのニュースが流れています。
買い占め騒ぎがあったり、陽性なのに出歩く人がいたり、転売や詐欺をする人がいたり、非常時に人間の嫌な面が見えてなんとも嫌な気持ちになります。
コロナに感染しているかどうか調べる検査をたくさんやれ、という意見がありますが。私にはそういう主張がちょっとよくわかりません。というのも、PCR検査というものは時間がかかるうえに結果は確実ではないようです。メディアによって数値が違いますが、精度は高くても70%程度。少なくとも30%も間違いがでるような検査をたくさんやってもよいのでしょうか。
陰性だと確認して安心したいという意見もあるのでしょうが、その考えこそ一番危ないのでは。陽性なのに陰性の結果が出てしまうことを「偽陰性」というそうです。今の検査では、たくさんやればやるほど偽陰性になる人もたくさん出てくるわけです。
偽であろうと陰性の結果を得た人たちが大人しく自粛していられるとは思えません。絶対に安心や慢心をしてしまいます。
私は正確でない「陰性」をたくさん出してしまうくらいなら、検査は絞ったほうがよいのではないかと思います。
森のたからもの探検帳 どんぐりのロマン
『拾う!飾る!楽しむ!森のたからもの探検帳』を読みました。
リスのエビフライやどんぐり、シーダローズ、鳥の羽など、森で見つかる様々なたからものを、写真をふんだんに使って紹介しています。著者飯田猛さんのコレクションが実物大でたくさん掲載されていて、とっても子供心が騒ぎました。探し方や保存法、活用法も書かれています。今が秋だったら思わず出かけていたかもしれません。
巻末に簡単な著者紹介が載っていたのですが「散歩家、編集者」とあります。
散歩家!
何て素敵な職業でしょう。本文を読んでいても、本当に散歩やコレクション収集が大好きということがひしひしと感じられます。一緒に森を歩いたら絶対楽しい。
道端のどんぐりや松ぼっくりを拾うのが恥ずかしくなったのはいつからだったでしょうか。今は綺麗などんぐりを見かけてもまじまじと見つめるくらいで、拾い上げることは躊躇してしまいます。そんな大人になったのが惜しくなってしまいました……。
どんぐりのロマンを思い出させてくれる良書でした。
今年の秋はぜひどんぐりを拾って煮沸してみたいと思います!
確信犯は何を確信しているのか
”確信犯”という言葉を最近よく思い浮かべます。
少し前、この言葉は誤用が多いとテレビで目にしました。「あの人は確信犯だ」など、「何かを行う前から悪いことだとわかっていてわざとやること、あるいは人」として気軽に使われることが多いですが、これは間違った使い方が広まったもののようです。
確信犯の本来の意味は、「政治的・思想的・宗教的などの信念に基づいて、正しいことだと確信して行われる犯罪行為、またはその犯罪行為を行う人」です。思想犯とかと似たような意味合いなのですね。
相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件の裁判が行われています。当時は精神的に絶不調で、一歩間違えば自分は被害者だったかも、あるいは加害者だったかもと考えた記憶があります。
報道で植松聖被告の供述を聞いていると、この人は確信犯だったのかもしれないなと思います。内容の是非はともかくとして。
屋根の形
最近、屋根を観察するのがマイブームです。
運動不足解消のために天気の良い日はできるだけお散歩に出るようにしているのですが、住宅街を歩きながら屋根に注目しているとなかなか面白い形のものに出会えます。
やたらと屋根のパーツが多い家にちょっとわくわくします。中は一体どうなっているんだろう……。
種類を調べたりもしています。お気に入りは「駒形切妻屋根」。
こまがたきりづまやね、と読みます。形もかわいいのですが語感が好き。
切妻屋根というのはごく一般的な、屋根の一番高いところ(棟)から下に向かう2つの斜面からなる三角の屋根のことです。我が家もこれ。
この斜面の勾配がそれぞれ二段階になっているものを、将棋の駒に形が似ていることから駒形切妻屋根と言います。ギャンブレル屋根とか腰折れ屋根とも言うそうです。
牛舎とか農家の大きい建物のイメージがありますが、意外と近所にもあります。倉庫とか物置なのか、住宅なのかはわかりませんが。
屋根ブームが続いたら、おもしろい屋根の写真集とか探してみようかな。
火のないところに煙は 「怖い」の基準
芦沢央『火のないところに煙は』を読んだ。古本屋に綺麗な単行本があるのをみつけて、ちょっと迷って買った。
この本に出会うのは2回目だった。新刊として書店に並んでいた時に見かけて何となく気になった記憶があった。芦沢央さんの作品は読んだことがなく、なぜ気になったのかはよくわからない。よくわからないけれど、再会したならご縁があるのだろう。こういう出会いは楽しいので2度気になった本はできるだけ買うようにしている。
適度にぞわぞわして楽しかった。筆者が実際に聞いたり体験した怪談話を小説として書き起こしたという形の作品で、フィクションなのか実話なのがちょっと考えてしまうリアルな怖さがあった。5編の何となくつながりがあるようなないような短編が、書き下ろしの終章でつながるのも楽しい。
第1話「染み」に出てくる染みについては購入の際に気になっていたので、思わず確認してゾッとした。店頭で気づかなくてよかった。
読み終わってみて、小野不由美さんの『残穢』と似ていると感じた。構成だとか文体がどうというより、読んでいて怖い感じと読み終わって怖くなくなる感じが似ていたのだと思う。どうも私が怖いと感じるものには「理解できない」と「逃れられない」の2つの要素があるらしい。怪談としては第4話の夢が怖かった。なぜ夢を見てしまうのか理解できないし、恐ろしい結果が見えているにも関わらず逃れられない。そして、よりリアルな恐怖として第2話の母親や第3話の隣人が怖かった。思考回路が理解できず、向こうからぐいぐい近づいてくるため逃れられない。人間の形をした得体のしれないモノに飲み込まれそうな気持ち悪さがある。
これらの怖さには、終章でそれらしい理由がつく。理由がついたので、なるほどねああ怖かったおもしろかったと安心して本を閉じられる。そして、『残穢』も読んでいてゾクゾクしたけれど読み終わって本を閉じたらこんな感じだったなと思った。ホラーはあまり読んでこなかったのでホラーというのはそういうものなのか、たまたまこれらがそういう読後感なのかわからないが。『残穢』を教えてくれた友人は「怖すぎて本が家にあるのも嫌だ」とのことだったのでたぶん個人差なのだろう。
伏線が先読みできてしまうところもあったけれど読みやすくて楽しかった。本屋で見かけたらまたチェックしよう。
大きなネズミさんと目標
あけましておめでとうございます。
2020年。オリンピック誘致の話題が持ち上がったころは随分と先の話だと思っていましたが、あっという間に来てしまうものですね。試される大地北海道に住んでおります、マラソンが無事に終わってくれますように。
今年は子年ということで、年末からあちこちでかわいらしいネズミの写真やイラストを見かけました。
中でもインパクトがあるのがこちら
カピバラさんです。ちっちゃくてちょこまか動くイメージのネズミの仲間、らしからぬ堂々たる体躯。大きくてちょっと怖いけど温泉につかったりもさもさ草を食べたり、愛嬌があってかわいいです。
私はなんとなくいつも「カピバラさん」と敬称付きで呼んでしまいます。キャラクターのイメージが強いのかな。かわいいですよねカピバラさん。クッションがふっかふかで手触りが良いのです。家にもお迎えしたい。
今年はたくさん本を読みたいです。ただ読むのではなく読んで思ったところを具体的に表現できるようになりたい。根っから本の虫で人に薦めたい本がどんどん増えるのですが、どうにも宣伝が苦手なので上手くなりたい。ならば練習しなければ。
「できないからやらない」では何事も成長しませんが、「できないことをやる」って実は勇気がいることなので……。発破をかけるつもりで書いています。がんばれ。
サンタクロースはいましたか
クリスマスでした。
プレゼントを貰う歳でもなく贈る子どもも身近にいない私としては、もっぱらおいしいケーキが食べられる日です。この時期限定のケーキが毎年たくさん出るので甘党としては嬉しい限り。
こどものころにサンタクロースを信じていた人ってやっぱり多いのでしょうか。
実のところ私には「本当にサンタクロースがいる」と思っていた時期がありません。
「サンタ」という存在は、絵本の登場人物として知りました。いつのことだったかはっきりとはわかりませんが、幼稚園の絵本に載っていた挿絵をぼんやりと覚えています。聖ニコラウスのことが書いてあって、「聖」の字に「セント」とルビがふられていたような気がします。しかし、幼稚園児が読む絵本にそんな難しい漢字があるでしょうか……ちょっと疑問なので、これは小学生以降の記憶が混じっているのかもしれませんが。
クリスマスというのは、このサンタのお話になぞらえて子どもがプレゼントを貰えるらしい、という認識だったのです。実際我が家では「クリスマスは好きなものをひとつ買ってあげる」と言われていて、親と一緒におもちゃ屋さんにいって自分でプレゼントを選んでいました。
大分成長してから友達と「いつまでサンタ信じてた?」という話をしたとき、昔は本気で信じていたという子が多くてびっくりしたものです。
ところで、日本ではいつからこんなにクリスマスが普及したのでしょう。キリスト教徒でもなんでもない人が多いのに、年の瀬の一大イベントとしてすっかり浸透していてよく考えてみれば不思議なお祭りです。昭和初期頃には結構知られていた、と聞いたことがありますが、これはそのうちじっくり調べてみようかと思います。
個人的には、子どもの頃はプレゼントが貰えたり、ケーキを食べたりする良い機会ができたので嬉しいな!ってくらいです。
はじめまして
お越しいただきありがとうございます。
このブログのコンセプトは「夏休みの自由研究」になる予定です。ここはわたしの自由研究帳です。
わたしはとっくに学校を卒業した大人ですし今は夏でもありませんが、気持ちだけは夏休みの小学生のようにいろいろやってみたくなりました。
日常の些細な疑問を研究したり、読書感想文を書いたり、単に日記をつけたり、気負わずのんびりとやっていこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。