にんじんを観察できるかな・・・
7月になりました。
5月の終わりにやっと芽が出たにんじんさん……。
悲しいことにみんな茶色くなって枯れてしまいました。
何がいけなかったんだろう。水はやっていたのですが、ちょっとずつ端っこが干からびている子が増えていって、気づけば全滅。
実は一部猫に掘り返されてしまって、その部分はしょうがないとは思っていたのですが、猫にやられなかったところも枯れてしまい……。しょんぼり。
へこたれていても仕方ないので、ちょっと土を入れ替えて種を蒔きなおしました。
その第2弾がようやく最近にんじんらしい葉っぱをつけてきています。
真ん中のちまっ!とした葉っぱがにんじんっぽい!
しかしこの子たちも、一部は枯れてしまっていて(泣)。これでまた全滅してしまうなら今年は泣く泣く諦めようかと思います。
なぜかにんじんさんばかりピックアップしてしまいますが、我が家では他の子たちも育ているので、次は別の子の写真を上げにくるかもしれない……。にんじんさんに頑張ってもらいたいものですが。
「もっと水が欲しいよ」「水が多いよ」「もうちょっとこういう土が良いよ」とか、教えてくれたらいいのに。そうはいかないのが植物の難しいところです。
植物セラピー
5月も終わりに近づいてきました。
春は外出するたびにどんどん緑が育って花が咲いていくのがとっても癒しになっています。あちこちの庭先や公園で次々色んな花が咲いて、日に日に緑が増殖して、道端でもタンポポや名前を知らないたくさんの花が咲いて、いい季節。北海道ではサトザクラがまだ少し咲いています。
我が家では毎年チューリップを植えています。今年は去年より数は増えたけれど、全体的に背が低くなりました。葉っぱだけで花が咲かないものもあったので、栄養が足りなかったのかな?小さいのもそれはそれでかわいいですが、今年はたっぷり肥料をあげて球根を太らせたいと思います。
そしていよいよ家庭菜園の季節。今年もにんじんをやります!昨年の種の残りを蒔いたのですが、しっかり芽が出てくれました。
にんじんの他にもミニトマトや小松菜などなど、野菜と花を育てます。
ちょっとずつ育っていく姿が毎日元気と癒しをくれます。今年もがんばろう。
『さがしもの』 同じ本と何度でも出会う
私の愛読書のひとつに、角田光代さんの『さがしもの』があります。
『さがしもの』には、9つの短編小説が収録されています。角川文庫であるこの本は、単行本から文庫化されるにあたってタイトルが変わりました。変更前のタイトルは『この本が、世界に存在することに』。
この本に出会えたこと、この本が私の世界に存在することをありがたく思います。
収録されているのは全てが本にまつわる物語です。表題作の「さがしもの」は病床の祖母に1冊の本を探すよう頼まれた少女のお話。それぞれの主人公たちの恋愛や旅や暮らしの中で、ふと存在する本が人生を少し変えていくような作品が多いです。
どの作品も好きなのですが、この本を本当に好きになったきっかけは1つ目の「旅する本」でした。大学生の時に本を売った主人公が、数年後に海外でその本に再会するというお話です。その本は、彼女が出会う度に内容が変わっていっているように思えます。そう感じるのは、人生を過ごすうちに彼女の考え方や感じ方が変化しているからでした。
初めて読んだ高校生の時には、このお話の魅力をそれほどよくわかっていませんでした。ところが大学生になって何気なく読み返したとき、自分が「旅する本」主人公と同じような体験をしていることに気がつきました。高校生の時と同じ文章を読んでいるのに、ほんの数年の間に自分の受け止め方が変わり、前とは違う物語を読んでいるような気持ちになれたのです。海外で偶然再会するほどドラマティックではないけれど、こんなことってほんとにあるんだ!と感動しました。
そんな『さがしもの』との2度目の出会いから、「本を通して自分の変化を見つめる」という新たな楽しみができました。読書とはただ楽しいだけでなく、自分を見つめなおせる趣味でもあるのだと気づけたのです。
それから昔好きだった本を読み返してみることが多くなりました。もう知っている話なのに、昔とは全然違うところに共感したり、当時は思いもよらなかったような気付きを得たりするのです。人生が進むたびに、同じ本と何度でも出会うことができるという発見は素晴らしいものでした。この楽しみがあると思えば、歳を重ねるのも悪くないかもしれません。
何年か経ったらまた『さがしもの』と何度目かの出会いをしたい。そのとき物語がどう変化しているかが楽しみです。
ときどきやってくる死にたい気持ち
毎日普通に過ごしていて、ときどき死にたい気持ちになることがあります。
疲れているときやストレスになることがあった時が多いですが、そうでもない時もあります。日常のいろんな所にスイッチが潜んでいて、押してしまって気づきます。
天気のいい日にふと、「今日みたいな日に死ぬのもいいかもなあ」と思いつくような、ふわっと軽い死にたさもたまにあります。こういうのは「甘いものが食べたいなあ」とか「庭の花が咲いたなあ」みたいな思いと大差ありません。スイッチを一瞬傾けて、さらりと通り過ぎていきます。
軽い思いつきではなく特定の原因があるものは、もっと重たい死にたさになります。スイッチを押し込んで重石になるのでなかなか抜け出せません。人生や人間関係を考えてしまうとよくそうなります。たとえば順風満帆そうな人と自分を比べてしまったり、お給料のことを考えたり、連絡に返事がこなかったり。些細なことからすぐに「死にたい」にたどり着きます。思考が「死にたい」に行き過ぎて、経路が確立されてしまっているのかなあ。
辿り着いてしまったら「ああ鬱だな」と思います。もう仕方ないです。ここは袋小路なので、できるだけ余計な事を考えず、好きなだけ泣いてすっきりすることにしています。泣いて泣いて落ち着いたら、早めに寝る。寝てしまえば忘れられるから。なんだって明日から頑張ればいいんです。
もし同じように悩んでいる人がいたら、とにかく死にたくなったら考えるのをやめて寝てしまうことをおすすめします。うまく眠れないなら睡眠薬を使ってでも、寝ましょう。
死んでしまうことは、いくらか前に考えないことに決めました。考えたって疲れるばっかりだからです。そう思いきるまでは苦労しましたが、決めてしまったらかなり楽になりました。
今日は久しぶりに重たい「死にたい」が来たので、寝る前に書いてみました。
緋色の弾丸を見てきました 感想と安室さんのこと
劇場版名探偵コナン『緋色の弾丸』を見に行ってきました。
物心つく頃からコナンを読んでいます。コナン熱のピークは小学校高学年頃でしたが、大人になってもたびたび燃え上がり、単行本はずっと集め続けています。
そして並居るキャラクターの中でも最も惚れ込んでいるのが、今回映画のメインを張った赤井秀一さん。
もともと期待が高まっていたところにコロナで公開が1年延期になり、2年間待ちに待っての鑑賞でした。
満足度は、
うーーーん、70点くらい!というのが正直なところです。
本当なら100点120点をつけたい大好きな赤井さんの映画にも関わらず、なぜ微妙な点数になってしまったのかの考察や、思うところを書いていきます。致命的なネタバレはしませんが、今作並びにこれまでの劇場版名探偵コナン作品の内容に触れていますので、未鑑賞の方はご注意ください。
・「赤井さんメイン」に期待しすぎた
今回それほど点数を上げられなかった一番の理由として考えられるのは、「映画全体における赤井秀一率が期待したほど高くなかったから」です。
もちろん赤井さんはたくさん出てきました。沖矢昴の時も含めれば相当な時間スクリーン上にいました。アクションもスナイプもしたしめちゃめちゃ声が良くて顔も良かった。でも今回の彼はあんまり主体ではなかったし、コナン君と二人で事件に立ち向かった!とも言えない感じだったんですよね。主人公はあくまでもコナン君で、それを支えるうちの一人。もちろん『名探偵コナン』の作品である以上当然なのですが……。
「今回のメインは赤井さん!!」という期待が高すぎたのです。そしてその期待を2年間も煮詰めてしまったのです。
期待が高まりすぎてしまったことには前々作『ゼロの執行人』の存在が大きいです。あの映画はすごい安室さん率で、コナン君と安室さんのW主役ぐらいの存在感だった記憶がありました。安室さんがあれだけメインを張って大フィーバーを起こしたなら、赤井さんは一体どんな活躍をしてくれるんだろう……と思っていました。
しかし今回のメインは正しくは「赤井ファミリー」でした。ファミリーは4人いるのです。世良ちゃんは大活躍でしたし、秀𠮷も頭脳を遺憾なく発揮、メアリーママも強くて存在感ばっちりでした。けっこうおいしいところを家族に持っていかれてしまったんですね。
更に今回はFBIがらみの事件のため、FBIの面々も活躍してきます。役者が多くそれぞれに見せ場があったため、結果的に赤井さんの占める割合が(私が勝手に期待していたよりも)低くなってしまったのでした。
私は赤井秀一さん個人にばかり盲目で見えなくなっていたのですが、赤井さんには家族や仲間がいて、赤井さんを描くということは必然的に周囲の彼らを描くということでもあったのでした。活躍した人たちはみんな赤井さんの関係者なわけで、その関係性に着目して見ていればもっと広い意味での「赤井さん」を楽しめたのかもしれません。
冷静に振り返ると、ジョディ先生と承認保護プログラム、秀𠮷の指示に反論するキャメル、秀𠮷と由美さんのラブラブなんかはもっとしっかり見たいところでした。2回目に行ったらまた違った深みが見えてきそう。
・安室さんのこと
この映画と赤井さんのことをつらつらと考えていたら、ふと安室さんのことを考えてしまいました。赤井さん推しの私としては安室さんには何かライバル意識のようなものがあって、あまり深く追ったことはなかったのですが。
赤井さんには仲間がたくさんいたけれど、安室さんってかなり孤独な人なのではないだろうか。家族は全然でてこないし、友人たちは亡くなってるし、「安室透」や「バーボン」の時の関係者は欺く対象です。降谷零には赤井さんで言うところのキャメルくらいの部下はいるけれど、あまり心を許している感じではなかったように思います。メインの映画で一緒に活躍するべき仲間がいなくて、だからコナン君と二人で頑張ったんでは?
そう考えたらちょっと寂しくなってしまいました。『ゼロの日常』や『警察学校編』は読んでいないのですが、読んでみたら実はもっと気心知れた仲間がいたりするでしょうか。警察学校の方は知れば知るほど悲しくなりそうな気もしますが。
組織のことや色んなことが片付いた後、赤井さんと安室さんは有能な者同士いい友人になれたりしないでしょうか。どうなのかなあ。
赤井の映画を見に行って、何故か安室に思いを馳せるという不思議なことになりました笑。
・そのほか、映画の感想
今回あまりわかりやすく華やかな派手さがなかったかなーと思いました。
舞台となった超電導リニアは最高時速1000㎞というとんでもない代物ですが、絵面は新幹線なんかとそこまで変わらないし、いまいち凄さを理解しきれなかった感じ。理系に詳しいと違ったりするのかな?
ド派手な夜空の花火や大爆発炎上みたいなビジュアル的盛り上がりが、ここ最近の劇場版コナンにしては少なかった印象です。特に、直近の劇場版赤井のイメージが『純黒の悪夢』での「花火をバックに観覧車の上で殴り合い」だったので、それに比べるとちょっと地味だったかな。そりゃそうだ。『紺青の拳』も凄い派手っぷりだったので、感覚が麻痺しているのかも。
女の子たち。前作に引き続き、園子が良い子でした。蘭は今回派手な活躍はなし。哀ちゃんが優秀でした。でも一番活躍してたのは世良ちゃんかな。みんな好きだけどメインは絶対蘭であって欲しい派としてはちょっと寂しい。
ゲストキャストさん。あっこのキャラゲストだな~っていうのはわかるけど、そんなに違和感はなくて良かったです。コナンの素人声優文化、ちょっと好きじゃなくて……ちょい役とか、子供たちのは微笑ましいんですけどね。酷かったときは本当に酷かったので、赤井さんの映画で事故らなくてホッとしました。
いろいろ書いてみたら劇場で見直したいなと思えたので、2発目、行ってこようと思います!
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今年の目標は「じりつ」
2021年になりました。
今年の目標は、「自立」と「自律」にしようと思っています。
自立とは、自分の力だけで物事を行うこと。
いまだ家族に甘えている自分の生活を変えていこうと思います。
自律とは、自分をコントロールすること。
日々の習慣や精神状態の安定した、意志の強いひとになりたいです。
ふたつの「じりつ」を心に留めて、今年も頑張ります。
天冥の標Ⅰ 気になることまとめ
かねてよりおすすめされていた『天冥の標』シリーズを読み始めました。
SFをあまり読まないのでしり込みしていたのですが、趣味の合う友人が是非にと言っていたので1巻だけ買ってしばらく置いてありました。
天冥の標は全10作完結済みのシリーズですが、1作目『メニーメニーシープ』を読んでみて、私はまだすごく壮大な物語世界のほんの一端を覗いただけだと感じました。
おそらく今後シリーズを読み進めるにしたがって、様々な謎が明らかになっていくものと思われるので、現時点での疑問や気になった伏線っぽいところをまとめておきます。
・咀嚼者(フェロシアン)、休息者(カルミアン)とは何か
今作に出てきた人外の者たち。咀嚼者(フェロシアン)は血液に冥王斑のウイルスを持っていて、人間を敵視している。石工(メイスン)と呼ばれていた者たちは最終盤で自分たちが休息者(カルミアン)だったことを思い出した。
彼らはどういう者たちで、人間とどんな関りがあり、どうして今回の行動に至ったのでしょうか。
・ダダーとは何なのか
「ダダーめ!」という慣用句?が序盤から頻出。オーマイゴッドみたいな感じの言葉かなと思ったら、なんだかきな臭い。
ダダーを名乗るノルルスカインという胡散臭い人物。この人はなんかクトゥルフのニャルラトテップに似た雰囲気を感じました。
シェパード号の操作人格のこともダダーと呼んでいました。これはAIみたいなやつかなと思って読んでいました。SiriとかAlexaのめっちゃ進化したバージョンみたいなイメージ。
・「ここ」はどこだったのか
中盤で海の一統の艦長キャスランが提示した疑問。ハーブCだと思っていた「ここ」は、ハーブCではないかもしれない。提示されたっきり作中では何もわからなかったのですが、今後明らかになってほしい。
ノルルスカインがシェパード号に乗らないのは難しいと言っていたので、実はこの星自体がシェパード号とか?
・海の向こうの工事?は何だったのか
アクリラたちがたどりつた陸地では重工兵が長大な濠を作り、地下空間でも不思議な作業が行われていました。昔から続くもので何のためかはわからないとのこと。
・カドムとイサリのつながり
ノルルスカイン曰く、人類の行く末を左右するような意義があるらしい。「業の償還」と言っていました。つまりカドムの祖先が何か悪行を働いていて、その報いが返ってくる?
・羊が体内に機械を持っていること
牧羊炎が出てきたときはオリジナルの病気かな?くらいに軽く流していたら、「生まれつき体の中に機械が埋まっている」発言でひっくり返った。まさか本当に電波とは。
この作品の羊は私が知っている羊ではなさそう……。
とりあえず主な疑問はこんなところ。ぜひ今後一掃されてほしいです。
他にもラゴスの過去とか、《鯨波》の二人組とか、《海の一統》の始まりとかのお話も読んでみたいな。
わからないことだらけなので、1作目を読み終わってもさっぱり「読み終わった」感がありません。面白かったといえばまあ面白かったけど、すっきりしない。むしろ「始まった」感があります。
文章は苦手じゃなかったし、きっとシリーズを読み終わってまたⅠに戻ってきたら首肯で首が振り切れそうになるくらいリンクが張り巡らされてるんだろうな!という予感があるので、楽しみに読み進めていこうと思います。
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にんじん観察日記5
四月下旬に種を蒔いたにんじん。
葉っぱがずいぶん大きく、根本が太くなってきました。
下の方の葉が地面につくようになったのは育ってるサインかも?と思って調べてみましたがよくわかりませんでした。
無事に成長していそうなので、収穫してみることにしました。
土の下がどうなっているかわからないので、少し緊張します。
ばっちりにんじんです!
立派なにんじんになっていて大満足。
自分なりに手塩にかけて育ててきたので嬉しいです。
今回は大きくなっていそうなものから4つ収穫してみました。
ばらつきがありますがどれもちゃんとにんじんになっていました。嬉しい。
収穫してみてから知ったのですが、根本が直径4~5㎝くらいになると収穫時なのだそう。少し早かったかな?
もう少し待って、残りも収穫したいと思います。
送電塔が怖い
送電塔が苦手です。
怖くて近づけません。理由は自分でもわかりませんがとにかく怖いんです。
1人で歩いているときの送電塔が一番怖い。車に乗っていたり、誰かと一緒に歩いているときはいくらかましになります。
送電塔にはいろんな形のタイプがあって、種類によって怖さも変わってきます。
たいていはより大きいもの、複雑なものほど苦手になる気がしますが、そうでもないこともあります。碍子(がいし)と呼ばれる飛び出た部分が大きいやつ本当に無理です。
参考画像を載せようかと思いましたが、怖くて画像を探せませんでした。
対症療法みたいな感じで今度怖い送電塔ランキングを作ろうかと思います。
変電所の近くには一生住めません。お近くにお住まいの方、尊敬します。
日本におけるクリスマスの歴史①日本上陸~戦国時代のクリスマス
昨年のクリスマス、キリスト教が盛んでもない日本でなぜクリスマスというイベントが定着しているんだろうと不思議に思いました。調べてみてわかってきたことをまとめます。今回は日本での最初のクリスマスから戦国時代について。
・最初のクリスマス
記録に残っている日本初のクリスマスは、1552年12月25日に周防の山口町(山口県)で行われました。コスモ・デ・トルレス司祭のもと、宣教師たちが聖書物語を読み聞かせたり聖歌を歌ったりし、その後食事をとりました。フランシスコ=ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのがその3年前、1549年の夏のことですから、おそらく1549年から何らかの形で祝われていたのではないかと推測できますが、記録には残っていません。
ちなみに当時は「クリスマス」ではなく、ポルトガル風に「ナタラ」と呼ばれていたようです。これ以降、各地でクリスマスを祝った記録が見られるようになります。
・盛大化するクリスマス
初めは布教活動の一環としての簡素で真面目なイベントだったクリスマス。少しずつ規模が大きくなり、合唱隊が結成されたり演劇が行われたりするようになります。1560年代にはプレゼントの交換が行われるところもありました。演劇は一般の人気が高かったようで、1566年の大分では信徒でもない人が大勢観劇にやって来たという記録があります。あまりに人が集まったせいか、キリシタンの紹介がなければ一般の人は入場禁止にしたところもあったようです。このように異教の祭りがイベントとして受け入れられることもある一方、1562年に初めて京都でクリスマスが祝われたときには夜通し投石があったなど、人々の反応は様々でした。
・日本のクリスマス休戦?
戦国時代の日本で「クリスマス休戦」と呼べるような出来事があったという情報を目にしました。ルイス・フロイスの手記の中に、1567年の堺近辺で対立する立場にあるキリシタン武士たちが共にクリスマスを祝ったという記述があるようです。
このとき対立していたのは織田信長軍と松永久秀軍。その両軍に所属していた武士約70名は、他の人々にキリシタンの愛や忠誠を示そうとひとつの建物に集まり、共に懺悔や食事をしたそうです。とはいっても、戦闘真っただ中のクリスマスというわけではなかった様子。松永久秀はこの頃すでに堺にはいなかった(あるいはかくれていた)と考えられており、そもそも戦ができる状態ではなかったと思われます。「クリスマス休戦」というと、激しい戦闘を一日だけ休戦したドイツ軍とイギリス軍のイメージが強くありますから、1567年の堺近辺について「クリスマス休戦」というのは少々大げさかもしれません。
1568年に京都に入った織田信長はキリスト教を保護し、。豊臣秀吉は初めは信長のやり方を踏襲しましたが、1587年に伴天連追放令を出します。追放令とは言ってもキリスト教国との貿易は続けていて、苛烈な弾圧はありませんでした。大っぴらには布教できないという程度のものでクリスマスも行われていたようです。
このあと禁教が本格的になるのは、徳川家康のもと江戸幕府が開かれてからのことです。いわゆる「隠れキリシタン」の時代を迎えます。
参考資料
『クリスマス どうやって日本に定着したか』クラウス・クラハト、克美・タテノクラハト著 角川書店 1999
『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』堀井憲一郎 講談社現代新書 2017
白狐魔記 源平の風
白狐魔記は歴史ファンタジー系の児童文学シリーズです。化身や憑依といった妖術を身につけた狐・白狐魔丸が、日本史上の大事件に行き合い、時の英雄たちと関わっていきます。狐の目線で人の世を見つめ「人間はなぜ殺し合うのか」というテーマと向き合います。
小学校高学年頃からずっと読んでいたシリーズなのですが、2019年末に7年ぶりの新作が出ていました。最新作が読めたので、1巻から順番に読み返してまとめてみます。
第1巻『源平の風』
名もない普通の若い狐が白狐魔丸となり、人間と深くかかわるようになってゆく始まりの物語です。主人公は独り立ちしたばかりの若い狐で、人間に興味を持ち、人里近くで暮らすうちに言葉を覚えました。狐は人間たちの話の中で、白駒山には妖術を操る仙人が住んでいると聞き、白駒山を探しに行きます。その道中、武士たちの争いに巻き込まれそうになった狐を助けたのは、今まさに合戦に出ようとする源義経でした。白駒山にたどり着き、修業を積んで妖術を覚えた狐は白狐魔丸という名前を得ました。故郷を見に行こうと山を出た白狐魔丸は、頼朝に追われて落ち延びる義経一行と再会します。
白狐魔丸は源氏と平氏の争う、武士の始まりの時代に生まれました。合戦を見て白狐魔丸は「人間はなぜ殺し合うのか」と疑問に思います。人間の戦はキツネの縄張り争いや相手を食べるための戦いとは違い、そうしなければ生きられないものではないように白狐魔丸には思えるのです。この疑問は続巻にも引き継がれ、シリーズを通したテーマとなっていきます。
初めて読んだときにはまだ源平合戦など歴史のことがよくわかっていなかったのですが、今読み返すと歴史上の有名なシーンがあったりして面白かったです。
にんじん観察日記
家庭菜園でにんじんを育てています。にんじんにした理由は、食べやすいから、家庭科で育てたことがあったから、なんか色が元気だからです。私は元気が欲しい。
4月の初めに種を買いました。ダイソーで2袋で100円(税別)のいちばん安いやつ。隣のスーパーでは1袋200円のにんじんの種も売っていましたが、正直違いがよく判らないし、安いのにしておいた方が失敗した時のショックが少なくて済みそうなので安い方に。
お金はかけませんがその分手間をかけます。土をふるいにかけておくと育ちやすくなると本で読んだのでせっせとふるって石をよけました。ただしゃがんでふるいを振っているだけなのに、体力のない私には結構な重労働。数日かかりました。農家さんはすごいなあ。
四月下旬に種を蒔きました。いつ芽が出るかとわくわくしていたのですがなかなか出ません。発芽まで10~15日らしいのですがそれを過ぎても出ず、近所の猫に畑に足跡を付けられました。
安い種だから出ないのかしら…寒すぎるのかしら…と思っていたら
先日ようやく発芽しました!
うれしい。もうすでに手塩にかけて育てた気分です。頑張って育てます。